従兄弟の急死
それは、あまりにも突然の出来事だった。ある日の夕方、会社での仕事中に実家の母親から電話があり、暗い声で訃報が告げられた。従兄弟(いとこ)の急死だった・・・。
通夜に出られなかった私と弟は、後日行われた葬儀・告別式から出席した。会場へ着くと、遠い所から駆け付けた親戚一同が既に勢揃いしていた。そして目前には、永遠に眠る従兄弟が入った棺桶と笑顔の遺影があった・・・。荘厳な雰囲気の中、彼を送る最後の儀式が営まれた。葬儀というものに出席するのが始めてだった私と弟は、作法に何の戸惑いも無くお焼香をして祈った・・・。
思い返せば小学生時代になるだろうか。夏休みを利用して一家で帰省した際に、同じ年代の従兄弟と山や川で良く遊んだものだった。しかしそれ以来会っていない。私も彼もいつの間にか大人になったが、顔を合わせることは無く、写真等で現状を伺う程度だった・・・。そしてそのまま告別式に入り、棺桶の蓋がゆっくりと開かれた。彼とこんな形で“再会”を果たすなんて・・・。ご両親は終始涙を流すこと無く、平然とした表情で別れの言葉を告げた。「涙を流さない」ではない。「既に涙を流し過ぎて枯れきっていた」であった。何より悲しくさせたのは、若くして従兄弟と結婚し、たった数年後に従兄弟に先立たれた奥さん(喪主)の姿だった。顔が崩れるほどに号泣し、夫の顔を両手で包み込むように触りながら別れを悔やんでいた。しかし従兄弟の顔は硬直し、動くことも無ければ返事も無かった。それを見て、私は涙が止まらなかった・・・。
棺桶を霊柩車へ運ぶ作業は、私と弟も当然のように手伝った。そのずっしりとした重さで、悲しみまでもが体中に伝わった。駆け付けた出席者たちが見守る中、霊柩車は火葬場へと向かった。これが彼といた“最後のひと時”だった・・・。会場では、葬儀・告別式の前後で洋楽のバラードがずっと流れていた。当初から不謹慎ではないかと思っていたのだが、後になって親からある話を聞いたことで撤回した。従兄弟が好きで自宅に保管してあった洋楽のCDを、遺族たちの意向で流してもらったというのだ・・・。
以下に挙げる締めの言葉で終わることが、ある意味で申し訳無いのだが・・・。私はここでいくつものドラマのレビューを書いてきた。そして最近追って書いているドラマに限っても、ストーリーの中で描かれた「ある登場人物の死」についてのことを必ず書いてきた。少し以前にさかのぼれば、死の危険性がある患者を扱う病院の出来事も書いてきた。フィクションとはいえドラマを見ては悲しい気持ちになり、毎回思いのままに言葉を書き連ねていたが、実際に身近な者の「死」に直面した私は同じように思いのまま書けなかった。「フィクション」という大前提に、どこか安心感があったのかもしれない。しかし悲劇の「ノンフィクション」を体験した後、「フィクション」の死を今まで通りに思いのまま書けるだろうか? 増してや、フィクションそのものの感想を思いのまま書けるだろうか? そんなつまらないことを考えた挙句、記事自体の公開をためらったりもした。
惜しまれつつも亡くなった従兄弟へ。
あえて一言、「ありがとう、疲れただろう、まあゆっくり休んでくれ」と伝えたい。
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